河井道は、伊勢神宮で代々神職を務める家に生まれました。しかし明治維新で職を失った一家は、開拓間もない北海道に移住します。河井家はそこでキリスト教と出会いました。当時10歳だった河井道は、サラ・スミスの生徒となり、スミス女学校(後の北星学園)においてキリスト教に基づいた人格教育を受けます。
この経験は河井の人生の基礎となり、後に自らの学校運営に生かされていきました。北星女学校卒業後には、小樽でクララ・ロースが始めた静修女学校の開校にあたり、生徒と寝起きを共にして教科を教え、寮母を務めました。
19歳で上京して、津田梅子宅に寄宿しながら学び、1898年、新渡戸稲造夫妻に伴われて渡米。フィラデルフィア州のアイヴィ・ハウス(予備校)に学んだあと、津田梅子らがアメリカで創設した奨学金を得てブリンマー大学に入学しました。
1904年、ブリンマー大学を卒業し帰国すると、東京の女子英学塾(後に津田英学塾)の教授に就任します。また日本YWCA設立当初から活動に関わり、日本人初の総幹事に就任して全国組織に成長させました。
1929年の恵泉女学園開校にあたっては、一色(渡辺)百合、森久保寿、佐々木(のちに坂田)俊子など、津田英学塾での教え子たちが「小さき弟子の群」を組織し、募金活動を行い支援しました。河井の住居で始められた恵泉女学園は、翌年、好条件で世田谷の千歳村(当時)に校舎付きの物件がみつかり移転しました。祈りが聞き届けられたとしか思えない幸運によって資金の目処もつき、購入することができたのです。学園はその後も河井の教育理念に賛同する多くの方々の支援をいただきながら、着実に成長しました。創立10周年を機に河井は、学校に対する当初の夢が多くの友人たちの直接間接の援助によって目覚ましく実現されてきたことに対する感謝を表すために”My Lantern”を出版、世に送り出しました。
1941年3月には、日本キリスト教連盟によって遣米使節団が結成され、アメリカのキリスト者と平和の祈りを共に捧げるために、急遽訪米しました。メソジスト教会の監督である阿部義宗や協同組合運動を推進した賀川豊彦ら海を渡った7人のメンバーの内、河井は唯一の女性メンバーとして参加しています。また、戦後河井は、教育刷新委員会委員となり「教育基本法」の制定に関わるほか、日本の短期大学制度の発足にも尽力しています。
1952年9月、河井は検査のため東大病院に入院、その後癌研病院に移り治療を続けますが、翌1953年2月11日、容態が悪化し、集まった人々の熱い祈りと讃美歌が歌われる中、静かに息を引き取りました。
河井道の名の表記は、道、道子、ミチ等とありますが、学園としては現在「道」で統一しています。